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 物珍しく、痛快な光景だった。あのフロイド・リーが目を見開き、行き場をなくした手を空中でふよふよさせている。
 梶は、やってやったぞ、と思った。ついにサプライズが成功した。これまで一度も成功してこなかったけれど、ようやくここにきてフロイドを出し抜くことが出来た。

 唇を離すとき、慌てたようにフロイドの舌が追ってきた。それも嬉しかった。表面だけをサッと拭われて、少しだけ濡れた自身の唇を噛み締めた梶は、フロイドの首に手を回したまま「どうですか」と口を開く。正確には緊張が後から押し寄せて「ど、どどうでした!?」だったが、それはまぁ誤差だ。

「フロイド、びっくりしたでしょ。まさか僕にキスされるなんて思ってなかったでしょ。へ、へへ。僕らの初キスですよ。僕からしたちゅーでしたね……!」

 掌に汗が噴き出して、膝ががくがくと鳴った。作戦は成功したのに、大失敗した時と体の反応は同じだ。
 変なもんだなぁと梶は思った。不意打ちは梶の念願で、この瞬間を作るための仕込みだって今朝から入念に行ってきた。いま、梶の胸に渦巻く高揚も勿論歓喜が由来だ。嬉しいはずだ。なのに涙が溢れそうになる。フロイドに触れたばかりの唇がわなないて、手を離したら、その場に座り込んで動けなくなってしまいそうだった。

「ふ、ふふ。初ちゅー。僕の一存で。フロイドに許可も取らないで。ず、ずっとハグとか、たくさんしてきたけど、キスはまだでしたよね。いやそりゃ、付き合ってなかったから当たり前なんだけど。つ、付き合うのも、フロイドは仕方なくって感じだったし。僕があんまりアンタのこと好きになっちゃったから、仕方ねぇなぁって、アンタはボランティアみたいな顔で提案してきた」

 数週間前が思い起こされる。好きで好きでどうしようもなくなって、擬態も限界を迎えていた梶を、フロイドは布団の中に招き入れると「もう付き合うか。な。だから寝ろ」と抱きしめて眠った。
 いつもフロイドは梶の先を歩いていて、梶の考えることなど大抵陰謀王にはお見通しだ。フロイドの成熟した精神はいつも梶を甘やかすために使われ、きっとハグより先の行動だって、梶がしたくて堪らなくなったら限界を訴える手前でつつがなく与えられたことだろう。
 梶は多分、待っていれば良かった。踏み出すことを怖がっていたら、フロイドは『仕方ねぇなぁ』という顔をして梶の欲しいものをくれる。雛鳥に親が食事を分け与えるように、フロイドからの提供には義務感がまとわりついているように思えた。愛が無いわけではないが、愛だけで動いているわけでも無い。『仕方ない』がフロイドを動かす前に、梶は自分で動きたかった。

 ズルいことを言えば、それさえ『仕方ねぇなぁ』で許してもらえる算段だった。最後の膜は破られないという甘えを持った上で、梶はフロイドの口に齧り付いた。唇を押し当て、年齢相応にかさついたフロイドの唇に感動した。許してくれるとは思った。それでもやっぱり、初めて自分から踏み出した一歩は怖かった。

「……フロイド、嫌じゃなかった?」

 口に出してみると、小さく、恥ずかしいくらい情けない声だった。梶はフロイドの首にしがみつき、失態を犯した子供のように顔を相手の肩に押し付ける。顔を見ることが怖いのに、迷惑をかけた本人に縋りつくあべこべさが自分でも滑稽だった。でも仕方ない。いま梶を許してくれるのはフロイド以外にいないのだ。
 梶は自分の耳に、低く甘ったるい声が「仕方ねぇなぁ」と呟くのを待った。言ってよと願っていた。許可してねぇぞ、なんて言われたら立ち直れない。顔も起こせない。

「梶、おい、顔上げろ」

 思っていた言葉ではなかったが、梶はおずおずと顔を上げた。声が柔らかかったからだ。
 視線が合ったフロイドは、梶を見つめると小さく笑った。顔が近づいてきて、今度はフロイドからキスをされる。少し顔を傾けるだけで、唇はよりピタリと合わさるのだと知った。五秒くらいだろうか。離れていく唇を、今度は梶が名残惜しそうに舌で拭った。

「嫌じゃねぇよ」

 フロイドが言う。

「はい」
「いや、言葉が違うな。悪かった。最初からずっと嫌でも面倒でもない。お前に一緒に寝ようと声をかけた時から、俺はずっと乗り気だった。タイミングを見誤ってただけだ」
「うん」
「お前は、自分のガキに居てもおかしくないような年齢のやつに惚れた人間っつうのが、お前が想像してる以上に日々『どうすりゃいいんだ』って困惑していると知ってくれ」
「うん」
「俺もお前に求められてると自惚れる」
「うん」
「愛してるよ」
「うん、僕も」

 愛してる、の声は三度重なった唇の隙間に消えていった。聞こえなくて良かったと思う。愛してるなんて発したことが無さ過ぎて、きっと音になったら「あい、い、てぅ」なんてたどたどしいものだった。クラクラするくらいロマンティックなこの瞬間に、梶の子供っぽい拙さは少し似合わない。まぁもし発してしまったとしても、きっとフロイドは「仕方ねぇなぁ」で流してくれたとは思うけど。