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 外で雀がちゅんこらちゅんと鳴いていた。
 南方は鈍痛のする頭を手で押えて起き上がり、そのまま手を顔面にスライドさせた。

 やってしまった。
 隣を見なくても、梶が全裸でスヤスヤ眠っていることは分かっている。恐らく梶の尻穴からは南方の精液が漏れ、腹には彼自身が吐き出した体液がベットリ付着したままだろう。
 昨日は後始末もせずにそのまま眠りについた。全裸だった自分が寒さを感じないまま熟睡出来たのは梶の体温を抱き締めて眠っていたからで、やっぱ人肌は温いなぁなんて感慨深く思ったりもするが、当たり前だが今はそんな感慨に浸っている場合ではなかった。

 だって梶を持ち帰って普通に抱いてしまった今の状況といったらヤバ過ぎるのだ。何を隠そう梶隆臣は倶楽部賭郎の会員にして組織頭領・斑目貘の快刀であり、何故か会員なのに御屋形様専用執務室に出入り出来る人物であり、ついでに言えば〝いま立ち会いたい会員〟ぶっちぎり一位という大人気物件でもある。
 彼を慕う黒服や一目置いている古参立会人も多く、そんな男を南方は組み敷いてひいこら言わせちゃったわけだ。
 ヤバい。ヤバすぎる。大体そうでなくとも梶は見るからに若い純朴青年だ。四十路を迎えた社会的地位の高い男がうっかり食べて良い素材な訳もなかった。

 仕事仲間と呼ぶことも憚られる微妙な距離感の相手を捕まえて、南方は先程までその体温を抱き枕に安眠を手に入れていた。笑い話にどころか梶自身にも到底伝えることが出来ない現状に、南方は内心苦しみ喘ぎ、本音をいえば奇声を発しながらそこの窓を突き破って飛び降りたかった。自宅は地上十六階だが、それを加味した上で飛ばせて頂きたい気分だった。

 南方は梶を起こさないよう慎重にベッドから降り、濡れタオルを持ってくると梶の臀部と下腹を丁寧に拭いた。
 音を立てないよう、無駄な接触はしないよう、細心の注意を払いながらパンツを履かせていく。
 梶は時折口元をむにゃむにゃさせたが起きる気配は無かった。よほど昨日の行為が疲れたんだろう。あれだけ痙攣して精を吐き出し、もう出ない、キスだけして、と懇願していたのだから当然といえば当然だった。

 南方は梶の口元だけをわざと限定して拭い、汗の不快感をあえて体に残したままタオルを片付ける。
 こうしておけば梶は寝起きに体の不衛生を自覚し、自分が昨晩風呂にも入らずに眠りこけたこと、何らかの事情があって服を脱がざるを得なかった状況などを納得してくれるだろう。人のことは言えないとはいえ、とにかく昨日の梶は泥酔していたので、梶に記憶が残っているとは考えにくかった。
 
 恐らく梶は昨日の途中から記憶が曖昧になっているはずだ。そこに付け込み、南方は昨日の全てを無かったことにする算段を立てたのだった。

 最後にベッドシーツと梶の衣服を回収し、洗濯機にそれらを一緒くたにしてぶち込んで南方の隠蔽工作は終了する。肩から力を抜き、一仕事終えた体を風呂場に押し込んで、南方は昨晩の諸々を洗い流すように熱いシャワーを浴びた。
 
 手に吸い付くようだった梶の肌や、自分を求めて不器用に伸ばされる拙い舌の情景が、四二度のお湯で排水溝へと押し流されていく。
 いい思いをした。具合は良かったし、梶の乱れた姿は想定を大きく超えて可愛らしかった。けれど、だからといって自分が彼をどうできるっていうんだ。酒の勢いなど次に続くものではなく、しかも相手は未来も可能性も多い二十そこらの若者だ。自分を選ぶメリットがあまりにも少ない。

 南方はまたしても深く溜め息を吐き、念入りに体を洗って浴室を出た。部屋着を着て、髪は風呂上がりを印象付けるため、あえて軽くタオルで拭くだけにしておく。
 がしがしとタオルドライをしながら、南方は頭の中で何度も考えたシナリオを繰り返した。

 昨晩大いに酒を飲んだ南方と梶は、あまりに酔っ払っていたので二人して南方の自宅に帰ってきた。そしてそのまま寝てしまおうといったところで梶が急に吐き気を訴え、トイレに駆け込む間もなく布団の上で嘔吐してしまったのだ。

 全ての失態を梶に押し付けてしまうシナリオだったが、背に腹はかえられなかった。
 もし梶が罪悪感を抱いて謝ってきたら寛大な態度で彼を安心させてやるつもりだし、「そんなことを言えば、私もいい歳をして貴方を介抱出来ないほど酔っ払っていました。年甲斐もなく飲んでお恥ずかしい限りです」と南方が頭を下げれば、なんとなく昨晩の失敗は両成敗で良い感じの着地点を見つけそうな気がする。

「同じ酒の失敗でも、若いもんの失敗なら笑い飛ばせるじゃないか」

 最終的にはそう己の中でシナリオを正当化させ、南方は未だ腹の中でぐずぐずとしている気持ちのあれそれに無理やり蓋をする。
 いっそ自分も何も覚えていなければ楽だっただろうに、幸か不幸か南方は記憶を無くさないタイプだった。
 タクシーを使わなければロクに身動きが取れないほどの前後不覚に陥り、一回りは年が離れているであろう同性の男の子を自宅に連れ込んで「よォ見たら可愛い顔しとるね……」とお付き合いの事実もないのにアナルをペニスでファックする深酒をかましたとしても、起きたら全ての出来事を時系列に沿って説明できる程度には記憶が残っている。幸か不幸かとは言ったが、正直不幸にウェイトは偏っているように思えた。
 こんな愚行の数々を覚えていても己の糧になるとは到底考えられなかったし、辛うじて役に立つ場面があるとすれば、それは梶によってレイプ疑惑をかけられた時に、証拠として発言が提出できるくらいだ。その発言だって、梶が本気で己を訴えるなら全てを飲み込んで闇に葬る所存である。
 起訴でも私刑でも何でもやってくると良い。いや、起訴はやっぱり、ちょっと表の仕事的に不都合がありすぎるかもしれないが、それでも出来る限りは対応する。
 漢・南方恭次に二言は無かった。ヤっちゃった事の責任は取る。ことが起こってから様々なことに気付いたとしても、ことを起こした事実をまずは重く受け止め、罰を受けなくてはいけない。それで潰える何かがあるとしても、だ。

 浴室から出た南方はキッチンで水を飲み、シンクに項垂れたあと「……よし」と誰に言うでもなく頭を振った。
 そのタイミングで寝室から梶の「うぅん」と目覚める声が聞こえてきて、南方は意味もなるリビングの机周りをうろうろ二往復したあと、意を決して寝室へと足を進めた。
 
 
 パンツ一丁の梶は、ベッドに上半身を起こしたままぼんやりと窓の外を眺めていた。日光が眩しいのか目をしぱしぱと瞬かせており、やはり彼も二日酔いがあるのだろう、しきりに頭を振っては苦しそうにこめかみを揉んでいる。

 まぁ、あれだけ飲めばそうなるわなぁ。

 南方は酒が残っていそうな梶に内心安堵の息を吐き、彼に向かって大股で近づいて行った。

 どこまで記憶があるのか。出来れば二軒目途中のちょいちょい自分が梶の頭を撫で始めたくらいから記憶が飛んでいてもらいたい。
 自分勝手な願望を抱きつつ、南方はあえて明るい声で「おはよう!」と梶に声をかける。状況をどこまで把握できているのか、梶は突然現れた南方に対しても特に驚いたそぶりを見せなかった。反射のように「おはようございます」と口にした彼は、相変わらずぼんやりとした顔で南方を見つめ、次にぐるりと部屋の中を見回していく。

 見慣れないがほどほどに生活感のある部屋は、ここが南方の自宅だと梶が察するに十分な説得力があった。
 南方は笑顔を浮かべたまま梶を観察し、彼の表情がいつまでも青ざめないことに安堵を覚えていく。

 普通同性とワンナイトをしてしまったなら、その事を少しでも覚えているなら、まさか梶のような好青年がここまで落ち着いているはずがない。
 少なくともベッドの上で起こったことはすっかり忘れていそうだと結論付け、南方は挨拶に引き続き、わざとらしいくらいの明るい声色で言った。

「体調はどうかな? いやぁ、昨日は飲みすぎてしまったね! ろくな介抱も出来ずに申し訳なかった! あ、服と汚れたシーツはね、遅くなったが今しがた洗濯機に入れたよ。乾くまで時間は、申し訳ないが私の服を着てもらっ……」
「えっちしちゃいましたね、僕ら。南方さん」
 
 出鼻へし折れ警視正。
 
 南方は天を仰いだ。梶の言葉に、全てのシナリオがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく感覚がある。
 大前提が崩落した。残念ながら、梶も南方と同じく酒に飲まれても記憶が残るタイプらしい。

「南方さん、僕……」
「いやあの、梶。その、一回ちょっと冷静に話をさせてくれんか」

 南方は頭を振り、妙に据わっている目を梶に向けた。
 困惑のあまり普段の標準語口調からすっかりお国の言葉に喋りが戻っていたが、そんな所にまで気を回している場合ではない。

「その、梶としても思うことは多いじゃろうし、酒が抜けた今となっては昨日の全部をひっくるめてトラウマかもしれん。だがまぁ、勿論昨日の過ちに関してはわしも出来る限りのケアやフォローはさせてもらいたいと思っとるし、証拠隠滅もあの、決して己の保身のためだけじゃなく、梶自身の精神的な負担を思ってのことで……というかすまん、」

 一方的に喋っていた南方が、突然言葉を切って渋い顔をする。

「はい?」
「一つだけ確認させてもらってええか?」
「はい」
「梶って成人しとるよな?」
「あ、はい。数年前に」
「ほっ。そうか」

 南方が胸を撫で下ろした。職務的にも本人の心持ち的にも、未成年に手を出したとあっては立ち直れない。
 とりあえず児童売春の嫌疑だけでも回避できて僥倖である。いや今のところ児ポ回避にしか救いがないのだが、それでも役満よりは満貫のほうがまだ傷は浅かった。

「で、その、話の続きだが……」
「いや、てか。逆にちょっと待ってくださいよ」

 なおも話を続けようとする南方に、ここで梶が待ったをかけた。

 寝起きのままベッドでパンイチ姿を晒している梶は、ぽかんとする南方の視線が裸の上半身に注がれていると気付き慌てて布団をたくし上げる。
 結果として布団からあぶれた肩やふくらはぎの肌色が余計に事後感を増幅させていたが、視覚的に大変気まずい光景になっていることなど露知らず、梶は自分が悪いことをしているかのように、何故だか南方の顔色を伺いつつ言った。

「なんでそんな謝る姿勢全開なんですか?」
「えっ? そりゃぁ、とんでもない事をわしはしたわけで……」
「でもそれって、南方さんの一方的な行為じゃないですよね? 酔っ払ってやったことだし、僕も乗り気だったし、南方さんが謝るのは違う気が……」
「い、いや! だとしても、自分より大分若い子を相手にわしはっ……!」

「……それに」と、梶の口がもごもごと動いた。視線がシーツに落ち、右に左にと忙しなく揺れた瞳が、観念したかのように南方を向く。

「すっごい言い難いですけど、僕あの、これが初めてじゃないんですよ。昔その……色々あって。だから気遣ってもらえるのは有難いんですけど、南方さんにそこまで責任感じられちゃうと、かえって申し訳ないんです」

 言い淀んではいたが、迷いの無い言葉だった。反応が遅れた南方は、言葉の意味を理解した瞬間ハッと息を呑む。
 梶の気まずげな表紙は過去への後悔ではなく、事実そのものの薄汚さによって曇っていた。腐っても警察官の南方に、その意味が分からないはずがない。

「……一応念の為に聞いておくが、その経験の有無に、恋愛遍歴は絡んでいるのか?」
「まぁ広い意味で言えば絡んでるでしょうね。僕のじゃなくて、母の、ですけど」

 僕モテないんで、と梶が自虐を付け加える。確定的な言葉に、南方は顔を歪めた。

 梶の家庭環境が芳しくなかったことは以前から知っていた。母親の交際相手が変わるたびに住処を転々とし、梶の生活水準もその時々の母の交際相手に由縁していたらしい。
 ギリ、と南方が唇を噛む。
 自分の浅慮に怒りが湧いた。

 児童が実母の交際相手から性的虐待を受けるケースは少なくない。幼い子供を性の捌け口とするような人間にとって、子供たちはあくまで性欲処理の道具だ。単なる道具なので、報告される被害には男女の区別が無かった。

 南方はその場に崩れ落ち、思わず叫ぶ。

「わしは被害者児童になんてことを!」

 どストレートな表現に今度は梶がギョッとした。

「いや元ですから! 元! そんな今も被害にあってるみたいな言い方やめてください!」

 聞き捨てならない、といった様子で梶が訂正する。「元といっても傷は癒んし継続的なケアは要る!」と熱弁する南方に「その考え方は大事ですけどぉ!」と一部肯定する姿勢を見せつつ、梶は困ったように頭を掻き、未だに床で呻いている南方に言った。

「いやすいません、そんな深刻に捉えて欲しかったわけじゃないんです。口とか手でしろって言ってくる奴は確かに居ましたけど、突っ込むまでしてきたのは一人くらいっすよ。それも過去の話だし、終わったあとは小遣いとか飯くれるんで、当時の自分も『そういうもんかぁ』くらいに思ってました」
「そんな言葉で片付けていい話では…いやだが……いや……そうか……」

 言葉に詰まる。なんと声掛けをすれば適切なのか南方も分かっていなかった。
 何を隠そう、梶が過去の話を始めたのは、南方の心労を減らしてやろうという気遣いからだ。南方が梶の処女を奪ってしまったのでは、と青い顔をしていたので、『貴方が新雪を踏み散らかしたわけじゃないですよ』と慰めるために梶は自分の過去を打ち明けた。つまりは優しさである。その優しさに対して、諸悪の根源が「そんな軽い感じに言っていいことじゃない!」と諭して果たして良いだろうか?
 良いわけあるか。誰のせいで梶がカミングアウトしなきゃならなくなったのか、胸と妙にスッキリしてる下半身に手を当てて考えてみろ。

 うぐぐ、うむぅ、と悩み声を発し続ける南方は、頭を抱えていたので、梶がそろそろと自分に這い寄ってくる気配にギリギリまで気付かなかった。
 ふと、自分以外のアルコール臭を感じて顔を上げると、梶の顔が思ったより近くにある。南方と視線がかち合った茶色の瞳が「あわ、わ」と瞬き、自分から近寄ってきていたのに、梶は驚いてベッドを後退っていった。

 南方は目を白黒させながら、一方で至近距離で見たばかりの梶の顔を反芻する。顔は赤く、目は潤んでいた。呼吸はまだまだ酒気を帯びていたので、昨晩の酒が抜けきっていないからだと言われたら納得するしかない。
 いやでも、だとしても、梶は以前からあんな風に己を見つめてきていただろうか。

 昨日の出来事を一から十まで思い返しながら、南方は改めて梶を見た。
 昨日の梶は可愛かった。甘え上手で頼り上手で、梶が「なんぽうさん」と呂律の回らない舌で自分の名前を呼んだとき、南方はこの子をどんだけでも甘やかしてやりたい、と思った。実際その決意は、ベッドの上で遺憾無く発揮された。我ながら優しく甘く、サービス精神満載の夜だったと思う。
 
 昨日のことを、梶はどう捉え、今はそれを鑑みてどう思っているんだろう。
 梶の気持ちは分からない。ただ、南方と同様に、梶も酒を飲んでも記憶は残るタイプらしい。

 だったら梶に残っているのは、蕩けるような指と声と、うっかり漏らしてしまった言葉たちだ。
 
 
「僕あの、別に子供の頃にされた事がトラウマになってるとかは無いんです。そ、それに……」

 チラ、と梶も南方を見る。戸惑いと期待が混ぜこまれた視線に、南方は頭を巡らせた。
 世間体、表の仕事、同郷の『おどれ人の専属に何してくれとんじゃ』の視線────いずれも頭が痛かったが、いずれも梶を拒絶する理由にはならなかった。

 南方は降参とばかりに両手を上げ、口元を緩めてベッドに膝を下ろす。梶が離れた分だけ南方はベッドの上をにじり寄り、梶があわあわしてる間に、二人の距離は再び顔が触れ合うほど近くなった。

「それに?」
「や、その……」
「白状すると、わしも昨日のことは全部覚えとるんよ。じゃから梶の態度次第でいくらでもケアやフォローをしようと思っとった。お前が悪いと言われたら謝ろうと、嫌だったと言われたら償おうと」
「や、い、嫌とかはっ…そんな……!」
「そうみたいだな。うん、だから、ケアの仕方を変えようと思った。ネガティブな感情が無いなら、ポジティブに向かっても良いかなと」
「ぽ、ポジティブ…?」

 梶の目がきらりと光る。分かりやすい様子に『ギャンブラーがこんなに単純で大丈夫か』と思いつつ、南方は梶を肯定するようにニコリと笑った。

 にへら、と梶も下手くそな笑顔を返してくる。すっかり調子に乗ってしまった梶が、あのですねぇ、と内ももをもじもじさせながら口を開いた。
 
 南方は梶の、あっさり陥落してしまった若者の主張を気分良く聞く。

「なんか昨日のは……や、優しいし気持ちいいし……な、なんかその、上書きっていうのかな? あ、なんだヤるのって良い気分になることもあるんじゃんって、思ったって言うか……こ、こういうのをえっちって呼ぶんなら、これは好きだっていうか……もっとしたいっていうか……」

聞きながら、今日の仕事をどうしたら休みに出来るかと、そればかり考えていた。