夢アンソロ箕輪さんver

  
 
 
 前カゴに荷物を詰め込みすぎて、足を離した途端に車体はゆらゆらと不安定に揺れた。一番上に乗っかっていたスナック菓子が今にも滑り落ちそうで、あわや落下の直前で足を着き、私はカゴの中身をもう一度整理する。
 やっぱり勢さんの言う通りだった。いくら奮発して安定性の高いものを買ったとしても、自転車は所詮自転車だ。
 漕いではグラつき、グラついては止まり、何度も余分な動きを繰り返していると冬でも額に汗が滲んでくる。どうも私は目先の損得勘定に囚われてしまうというか、慎重派な夫と違い、衝動的に動く場面が多くあった。「そんなに高い自転車を買うくらいならネットスーパー使っても同じじゃねぇか?」という購入時の彼の呆れ声が蘇って、私は頭の中にいる夫に「ね。勢さんの言うこと聞いとけば良かった」と今更ながら同調する。
 友人に言わせれば、私の計画性の無さや学習能力の低さは『気の長い年上旦那に甘やかされてきた結果』らしい。散々な言われようだが、一概に否定出来ないな、と思う今日この頃だった。
 かごいっぱいの荷物は全て食料品で、本日の総合計は一万三千円だった。毎度目を剥くような高額会計を叩きだす我が家だけど、溢れんばかりの食材を持ち帰ったところで食材はいつも三日ともたない。私たちの食卓はちょっと特殊だ。油は週に二本無くなるし、スナック菓子は特売品を片っ端から買い漁っても、消費量が激しすぎて一向に在庫を作れなかった。
 週に何回もこんな買い物を続けていると、始めのうちは暖かい目を向けていた馴染みのレジ打ちも、次第に訝しげな表情を私に向けてくるようになる。あなた、そんなにお家に育ち盛りのお子さんを抱えていらっしゃるの? いつも一人で買い出しにくるけれど、とても一人二人の量じゃないわよね。どこかの寮母さん? それともすごい大食らいか、はたまた摂食障害か──。
 家は二人家族で、私たちに子供は居なかった。無理やり理解を求めるものでもないから、私は今日も曖昧に笑って食品を買い込んでいく。夫の体質は先天的なもので、スーパーマンにでもならない限り不便ばかりの特性だ。本人が一番辛くて大変だろうに、勢さんはそのことで、いつも私に申し訳なさそうにしていた。
 ちゃんと話を聞けば、まぁなんて大変な体質なんでしょう、と誰も勢さんを責める気にはならないと思う。でも、世間は皆忙しくて他人の事情に無関心で、勢さんの話を聞いたり、何時でもどこでも食べ物を貪ってる彼を白い目で見るだけだった。
 生まれてから今日にいたるまで、ずぅっとそんな風に理不尽に晒されながらやってきた人だった。節くれだった指を忙しなく動かし、気まずそうに下を向いた勢さんは、あの日もまるで自分の罪状を告白するように自身の体質を告げた。もう十年も前になる。春の日差しが柔らかい、三月の終わりがけだった。
  

 
  
「私ちょっと体質が変わってましてねぇ。常に栄養不足で、ずっと食ってないと死ぬんですよ」

 勢さんは仲人の制止も聞かず、自己紹介の直後に自身の不都合を白状した。場がしーんと静まり返って、勢さん側の親族がこの世の終わりとばかりに頭を抱えて机に突っ伏していた。私はどう返したら正解なのか分からず、とりあえず隣に座ってる叔母の顔を見ながらはぁ、そうなんですか、と生返事を返したことを覚えている。
 見合い当時、私は二〇そこそこの小娘で、勢さんは仕事も軌道に乗り始めた三〇代だった。年が離れたお見合いは親同士が組んだもので、事業に失敗した私の父が、首の皮一枚繋がるために遠縁の家に娘を差し出した結果だ。
 見合いから十年経ったし、私たちの夫婦仲は現在も円満である。なのでまぁ、時効も成立するだろうと思って正直に言わせていただくのだが、私の勢さんに対する第一印象は、ぶっちゃけ良くなかった。というか、普通に悪かった。マジでお父さん恨むって思った。肩幅の合っていないスーツを着た勢さんは当時も今と変わらず笑顔がわざとらしかったし、体は貧乏ゆすりを繰り返し、何より今となっては彼のトレードマークと化してる無精ひげが、若い娘にはひどく不潔に映ったのだ。『こちとら一応綺麗に着物を着て髪だって美容院でセットしてきたっていうのに、無理やりお見合いを組んだのはこっちだとしても、もう少し誠意を見せてくれたって良いんじゃないの』と終始ムスッとしていた小娘に、ある程度想定通りの反応だったとはいえ、勢さんもよく怒らなかったもんだ。
 今となっては理解出来るけど、あの日の立ち振る舞いやカミングアウトは、縁談を断りたかった勢さんのなけなしの牽制だった。でも当時、私は勢さんみたいな体質の人が世界に居るなんて知らなかったし、そんな珍しい人間が、普通にそこら辺で生活しているとも思っていなかった。だから彼の遠回しな拒絶が私には全く通じず、単にだらしないおじさんが、いきなり食いしん坊アピールをしてきたんだと思うに留まってしまったのだ。
 よくも悪くもひどい勘違いだったわけだけど、その勘違いがあったからこそ勢さんは根負けして次回も会ってくれたし、私はくたびれ系食いしん坊おじさんがあんまりに大食漢なので面白くなってきちゃって、何度も何度も食べ放題デートに誘ってるうちに、“この人が私を食べたらどんな風だろう?”という好奇心に勝てなくなってしまった。
 五回目だか六回目くらいのデートのあと、もう少し食べれませんかってホテルに誘ったら、勢さんはものすごく困った顔をして「へぇ。あぁそりゃ、まいったね」と言いながら私の後ろをついてきた。終始困った顔はしてたけど一応することは全部してくれて、勢さんは脱ぎ捨てられた私の靴下を一足ずつ丁寧に拾いながら、「あのよぅ、俺ぁ別にフードファイターってわけじゃないんだ。まぁ似たようなもんかもしれねぇが」と気まずそうに教えてくれた。

「違うんですか?」
「うん。もう少しこう、質が悪いもんだ。治りもしねぇし」
「へぇ。それはなんか、大変ですね」
「そうなんだよ」
「ふぅん」
「だからまぁ、苦労はかけるよ。なぁお嬢さん、悪いけど俺と一緒になってくれねぇか。ちゃんと食い扶持は稼いでくるし、叩いたり怒鳴ったりすることも絶対しないから」

 プロポーズの時も勢さんと食は地続きで、私はシャツのボタンさえろくに閉まりきっていない状態で、ぼんやり『あ、口に合ったんだ』と思った。彼の人生に関わっていく上で、彼の体質や食欲への理解はどうにも避けられない。当時何もかも奇天烈に映っていた勢さんの言動は、常に私をジャッジしていたし、同時に私へ、常に弱い祈りみたいなものを向けていた。
 これから貴方と一緒に生きたいと思っています。でもそれはすごく難しいことだから、出来るか分かりません。出来たら良いなと思います。
 付き合っているあいだ、勢さんはいつも気まずそうだった。プロポーズの言葉でさえ私に謝っていた彼は、今でもふいに、にったりとした笑顔の下で何かを詫び、祈っているようにも感じる。
  
 
 
 ※※※
  
 
  部屋に入ると、がさごそとものを物色する音が聞こえた。急いで廊下を突っ切る。キッチンの隈で、くたびれた背広が丸くなっていた。

「冬眠明けの熊だ」

 思わず突っ込むと、熊はのっそりと後ろを振り、困惑するようにへろへろ笑う。

「熊って」
「冬眠明けの熊が餌を求めて民家に入り込んだみたい。通報するべきかも」
「ひでぇなぁ。このまま麻酔銃で眠らされんのかい? 俺はあれだよ、熊は熊でも優しい熊だ。人様を襲うなんてとてもとても」
「人里に降りてきた熊はみんな最初はそう思ってんだよ」
「そうなの?」
「うん。でも思ったより人間って怖いから、ついつい優しい熊もビックリしちゃって──」
「しちゃって?」
「あ、ねぇねぇ。犬とか猫はチョコが体に毒だっていうでしょ。熊はどうなのかな? 食べても大丈夫?」
「知らねぇよぉ。あんたね、毎回言ってるけど途中でコロッと話題を変えるの止めろよ。頭がこんがらがっちまうだろ」

 そう言いつつも勢さんは携帯を開いてポチポチ何かを調べ始めてくれる。器用な前足でチョコパイの包みを剥がしながら、我が家の熊は「一〇キロくらい食ったら死ぬらしい」ともちゃもちゃとマズそうにチョコパイを咀嚼した。
 あらあらチョコパイ。これはマズい。勢さんが自主的にチョコ系を食べてる時というのは、大抵お腹の減り具合が深刻で、ちょっと気持ちが焦っている時だった。
 私は買ってきた袋の中から総菜パンを取り出し、勢さんの前に次々と並べていく。彼は無言でパンを引っ掴んで、右から順に胃の中に押し込んでいった。

「おかえり。もう帰り? 早いじゃない」
「いやぁまだ仕事中。仕事で外に出てて、帰ったら残りの仕事もあるんだが、急に腹が減っちまってな。ちょっと寄って、何か食わせてもらおうかと思って」

 けどタイミングが悪かった、と勢さん。シンクには使いっぱなしの大きなザルが見え、一升炊きの炊飯器からはもうもうと湯気が出ていた。ちょうど冷凍ご飯を切らしていたから、仕方なく自分で米を炊いたんだろう。待ち時間を繋ぐために食べていたお菓子をざっと見回す限り、もう二〇分は炊飯器の前で待機していたらしい。
 私は炊飯器の画面を覗き込み、残り時間の表示もされていない様子に予感が的中したことを察する。

「勢さん、これ、早炊きになってないよ」
「えっ、嘘だろ?」
「ほんと。隣のじっくり炊き上げるモードを選択しちゃってる。あと三〇分はかかるね」
「まーじかぁ。腹ァ減ってんだがなぁ」

 げっそりとした顔で勢さんが残りのパンも頬張る。パンの方がカロリー効率良いじゃん、とフォローする私に、勢さんは「今日は米の気分だったんだよ」とブウ垂れた。
 テーブルには朝の残りの沢庵と、最近勢さんが気に入ってる海苔の佃煮が瓶ごとドカンと置いてあった。炊き立てご飯の上に佃煮を載せて、沢庵をポリポリしながらお腹を満たす算段だったらしい。私の眉間に皺が寄っていく様を、勢さんは悪戯がバレた子供みたいにハラハラした表情で見つめていた。

「私この前、海苔ご飯だけじゃカロリーが補えないって言ったよね? 沢庵もカロリー以前に塩分が多すぎるし、食べたいものを食べたい気持ちは分かるけど、好物をそのまま食べるだけじゃダメな時もあるんだよ」

 せめてバターを載っけてって言ったじゃない、と勢さんを詰める。居心地の悪そうな目が左右にうろうろと動いて、勢さんはしょんぼり肩を落とした格好で「だってその、この佃煮はこのままが一番美味くって……」と情けない声を出した。

「美味くっても、だよ。勢さんの体のためだもん。ダメなものはダメでしょ?」
「おっしゃる通りだが、そこを何とかなぁ……俺はほら、量が食えるから。二杯も三杯も食えばトータルのカロリーは超えるだろ」
「今はそれで良いかもしれないけど、このまま年齢を重ねたら胃とか肝臓が絶対悲鳴を上げるんだよ。量を食べて稼ぐなんてやり方絶対ダメ。内臓が壊れたら、勢さんの体どうなっちゃうと思うの」
「いやそりゃ……うーん……」
「私、なにか間違ったこと言ってますか?」
「言ってない。言ってないが、でもよぉ……」

 勢さんは床に視線を落として口元をもごもごさせている。分が悪い自覚はあるんだろう。何度か反論を試みた口元は、結局失言をこぼす前にお菓子を詰め込むことで塞がれていた。
 相手の言い分は分かっている。いつも脂っこいものばかり食べるんじゃなくて、たまには勢さんだってサッパリしたものや、胸やけのしない食事がしたいんだろう。
 体は常にカロリーを必要とするくせに、勢さんの舌や嗜好は至って普通の中高年だ。洋食よりは和食を好むし、肉よりも魚を出したほうが嬉しそうにする。自分がタルタルソースたっぷりのサーモンフライを食べてる向かいで、私がシンプルな焼き鮭なんかを食べていたりすると、勢さんはチラチラこっちを盗み見ては恨めしそうに箸を噛んでいた。
 私はいつもそんな彼に見て見ぬふりをする。焼き鮭が欲しいならいくらでもあげるけど、彼のサーモンフライと交換することは出来ないのだ。
 勢さんにとって生きることは食べることで、私には夫の食事を強要する義務があった。嫌がられても食事を強要しなきゃいけないのは本当だけど、とはいえあんまり本人の気持ちを無下にするのも、やっぱりそれはそれで可哀想だ。

「……今日の帰りは遅いの?」

 私は丸い背中に話しかける。

「いんや二〇時くらい。そこまで遅くはないかな」
「じゃぁ今炊いてるご飯は夕飯だね。仕事戻んなきゃなんだしょ? 菓子パンがまだあるし、全部食べて良いよ」
「おっ、おー。そりゃ助かる」

 袋の中に残っていたパンを全て机に出すと、勢さんは強張った笑顔でお礼を言った。食の楽しみなんて概念はすっかり忘れてしまった顔でパンを手に取り、機械的に顎を動かしてせっせと咀嚼する勢さんを見ながら、私は大袈裟に手を打ってみせる。

「でさっ、この時間にしっかり食べたら、夜はけっこう自由に出来るでしょ? 夕飯は和食定食なんでどうかな。小松菜のおひたしにお漬物、サバの塩焼きに味噌汁に……勿論ご飯には、海苔の佃煮を大胆にトッピング!」

 ちょっとわざとらし過ぎたかもしれない。あんまり勢さんがしょげてたから、つい喜んでほしくて、何だか変なテンションになってしまった。
 勢さんの方を見ると、メロンパン片手にぽかんとしている。いつも気怠気な目元をぱちくりさせながら、それでも幼少期からの習慣で、彼はいち早くパンを口へ運ぶ手を再開させていた。

「和食ていひょく」もちゃもちゃ咀嚼音の合間に声が聞こえる。
「そう。良い感じの夕飯になりそうじゃない? ていうかまぁ、ほとんど朝食みたいだけど……」
「そりゃまた……良いのかねぇ俺は。こんな贅沢しちまって」

 しみじみ吐き出された勢さんの台詞に、今度は私が目をぱちぱちと瞬かせる番だった。
 私が提案した定食メニューは、どれも既製品をそのまま出すだけか、たった二,三個の工程を経るだけで作れる簡単なものばかりだった。食材も変わったものを使うわけじゃないし、むしろサバとか小松菜は価格の変動も少ないから、お財布に優しい献立といっても過言ではない。

「特に贅沢なものは無いと思うんだけど……それにいっつも無理やり頑張って食べてるんだから、せめて一食くらい好きに食べたって良くない?」
「いやぁそうじゃなくてね」

 ぎゅっと残りのメロンパンを拳の中に握りこんだ勢さんが、私を申し訳なさそうに見つめて頭を掻いた。圧縮されたメロンパンは嘘みたいに小さくなり、たった一瞬で小指の爪ほどのサイズになって、まるで手品を目の当たりにした気分になる。勢さんは欠片のようなメロンパンを口に放り込んで、噛みもしないでごくんと一飲みにした。

「いきなり帰ってきて家中の食い物を食い荒らして、なのに怒られるどころか、ずうっとカミさんに体を気遣ってもらってるわけだ。ちょっとよぉ、世の旦那の中でも恵まれすぎてんじゃないかと」

 無精ひげの生えた頬がピクピク痙攣する。にったりした不気味な笑顔は、もうとっくに慣れ切ってしまったけど、やっぱり人に悪い誤解を与えすぎると思った。

「身に余るってやつだ。良い嫁貰ったなぁ」
「そんな改まって言われると恥ずかしいんだけど……それに、言うほど良い嫁でもないよ。わりと口悪いし、部屋の掃除も適当だし」
「部屋なんて虫が湧かなきゃ上出来だぁ。口だって悪かろうが意味が通じりゃ問題無いし、大体俺の口調だって、お上品からは程遠いだろ? てめぇが出来ないことをてめぇ以外に求めるつもりはねぇな。場所に構わず飲み食いするような奴でも、それくらいの恥はあるんだ」

 少し影のある言葉だった。私の胸はちくんと痛むけど、勢さんは気にした様子もない。その程度の苦言にいちいち反応していられないほど、勢さんは食事のことで不自由な思いをしていて、その上で食べたり飲んだりしてきたのだろう。
 生きるために。
 私の夫は少し普通と異なっている。少し不憫でほっとけなくて、こんな生活が続いていけば良いと、私は日々、弱い祈りを重ねている。

「勢さんってさ、見た目物騒だけど、実際はけっこう温厚な性格してるよね」
「そりゃどうも。前半の台詞言う必要あったか?」
「おっとりタイプって感じ。乳牛みたい」
「よりにもよって乳牛かい。絶対違うと思うがなぁ」
「そう?」
「絶対違うだろ。主に雌雄的な意味で」
「細かいんだから」
「大体、さっきは熊って言ってたじゃねえか。動物に例えるにしたって、熊か牛かどっちかにしてくれよ」
「どっちか?」
「うん」
「じゃぁ……タヌキ」
「えっ? おうおう、まーた予想外なこと言いやがる。えぇ? タヌキぃ? どっから来たんだよそのタヌ公は」

 うへぇっとした顔で勢さんがパンを齧る。ひっきりなしにパンを放り込んでは頬を膨らませている姿を「リスみたいね」と茶化すと、勢さんは目を見開いて、「俺は一人動物園か? 勘弁してくれよぉ」と、いつも通り気まずそうに言った。